【9月入学反対】6歳になって数日で、7歳半のクラスメイトと算数を学ぶかもしれない子供たちのこと。
3月から続く休校で、今や大学生の5人に一人が退学を検討しているという。
春から小学校に入学した子どもたちは、まともに学校に通えないまま家で過ごしている。
このしわ寄せは、どこにいくのだろう。教師も生徒も、長期休みは一切無いまま学校に通わなければならないのだろうか。退学に追い込まれた大学生も、「自己責任」の言葉で処理されてしまうのだろうか。
欧米諸国では9月入学がスタンダードだ。
それなのに、どうして日本は4月入学なのだろうと純粋に疑問に思っていた。
どうせなら欧米諸国に入学時期を合わせれば良いではないか。
安直にそう思っていた。この記事を読むまで。
私の子供は、2015年8月末生まれの年中だ。
この記事通りに9月新学期制度が採用されたら、年長の秋だったはずの来年9月には「新1年生」として小学校に入学することになる。
「それがなんだ?うちの子はせっかく小学校に入学したのにまともに授業も受けていない」と、私が小1の子を持つ親だったらそう思っているだろう。
授業料がバカ高いことで知られる母校の美大では、前期はオンライン授業になるが学費はそのままということで、現役生たちによって学費減免を求める署名活動が起こっていた。地方出身で親が学費をなんとか捻出してくれていた身として他人ごとには感じられず、私も署名した。
だからただここで「9月入学反対!」と声を上げたところで、それが何にもならないことは分かっている。
分かっているけど、このしわ寄せを埋めるために、これまで一緒に遊んだ友人たちと離れて1年半も年が離れた人たちと肩を並べて小学校に入学することになるかもしれない子を持つ親として、自分事を語らせてほしい。
これは、子供が当事者じゃなければ「欧米諸国だって9月なんだから合わせればいいじゃん!」と具体的な問題に目を向けず思っていただろう自分に宛てた手紙のようなものだ。
ここからはもう完全に今の学生の親だの教師だのの目線や根拠だの無視して、半径2mの自分事を書いていく。
小学校5年生のときに見る中学1年生は、完全に大人だった。
けれど大学では浪人生や留学生、社会人から学生になった人など友人たちの年齢は完全にバラバラの環境になって、それまで感じていた1歳の差なんて気にも留めなくなった。
完全に余談だが、気に留めなくなった挙句親ほど年齢差のある人と結婚したくらいだ。
「なんで子供のころの1歳の差はあんなに大きかったんだろう」とむしろ疑問だったが、子どもが生まれて痛感することになった。
そして、小中学生の頃に足が速くてモテていた子や勉強ができてリーダーシップのある子達はなぜか4~6月生まれが多かった謎もすぐに解けた。
子どもの月齢の差による発達の違いというのは、えげつない。
赤ちゃんの頃は見た目にその差が顕著だ。そもそも月齢が違えば、片や未だ腹の中である。
だが、3歳~4歳になってくると早生まれでも体格が良かったりおしゃべりが上手だったりする子もたくさんいて「やっぱり月齢差なんてあってないようなものだよな」なんて思うようになった。
子どもが通う保育園のクラスは、20人の子供たちのうち16人が10月以降の生まれだ。
たまたまではあるけれど、4~9月生まれは我が子を含めて4人しかいない。
年少の頃、度々子どもが「お友達がいつもおもちゃを貸してくれない。自分はかわりばんこに使っているのに」と言うので、保護者面談の際に担任の先生に相談したことがあった。
先生曰く、おもちゃを貸してくれない子とは4~5か月ほど月齢の差があり、我が子の方が月齢が上だった。
そうすると、どうしても発達(=できること)に差が出てきてしまうという。
体格の差は個人差によってきたけれど、同じ学年でもまだ自分中心にしか考えられない3歳と、少しずつ他人の感情に寄り添えるようになってきた4歳とはやはり違うのだという。
私は発達の専門的な知識については分からないけれど、たとえば子どもたちのお絵描きの様子を見ていると、4月生まれの子供が圧倒的に上手い。4月生まれの4歳児がアニメを意識したはっきりした目鼻立ちの絵を描いているとき、冬~早生まれの3歳児は頭足児すら危うい、大胆なクレヨン使いの抽象絵画を制作していたりする。
身体の使い方や認識など、どうしても月齢による差というのは小学校低学年までは明確にあるといったことを保育士の先生から言われた。
月齢でさえこうも発達に違いが出てくる。
大人になっても未だに「早生まれだったから...」と呪詛を言う人がいるが、物心ついたときからこうした差に曝されていれば呪詛の一つも言いたくなるのだろうとようやく理解できた。
それなのに、同級生と1年半の差が出たら。
いま現在の比較をするとしたら、1歳半年上の知り合いの子供は現在小学1年生で、カタカナも上手に書けるし足し算引き算の理解も年中の我が子より進んでいる。
2月にあったお遊戯会では長セリフも余裕で役を演じていて、感動して泣いてしまった。
1年半年の差がある4歳の我が子は、「演じる」ということがそもそもどういうことなのか、まだよくわかっていない。
お互い平均的な体格なので、やはり体格に差がある。
ちなみに今これを書いているリアルタイムで、我が子は「くまさんの絵が描けない!」と騒いでいる。
画用紙の表面に上手に絵が描けなかったと泣いて、新しい紙に描いたら?といえば「ちがう!」とぎゃんぎゃん泣いている。
「どうぶつえん」と言おうとすると「どうぶちゅえん」になってしまう。
正直、手がちゃんと届かないのでトイレでおしりも自分で拭けない。
それなのに、来年の秋には半年早く小学生になって、一人でランドセルを背負って横断歩道のない道を通って小学校に通わなければいけなくなる、かもしれない。
そして、いま同じクラスで遊んでいる16人のお友達とは分断される。
勉強についていけるのだろうか。感情論や根性論でなく、子どもにはどうしても月齢の差によって出来ること・出来ないことがある。早生まれで苦労した人、していない人がいるだろう。だが我が子のこの場合、一年半だ。差がありすぎる。
知事10数人が9月入学採用に賛成を示し、私たちの住む東京都の小池百合子都知事に至っては「私は9月入学賛成論者です。採用するには混乱が生じるだろうけれども、今の状況も混乱しているのだから。」と含み笑いで言っていた。
混乱を以て混乱を制すとでも言うのだろうか。
この新型ウイルスの影響で、どうにもならないことばかり起きている。
この「二週間が重要な局面」というループから、気づけばフェーズは「この1ヵ月が重要な局面」というループに移行している。
そんな中で、状況が混乱しているというのを口実に、つい数日前まで5歳だった我が子は6歳になったとたんにランドセルを背負って一人で学校に通わなればならなくなる。
7歳数か月の子どもたちと一緒に、算数や国語を勉強する。
音読もあるだろう。7歳半の子供と、6歳なりたての子供の滑舌は、どれくらい違うのだろうか。
そうした子供の発達の差に教師が寄り添ってくれるとは思えないし、実際教職に就いている友人たちのことを思うとそれが難しいということも分かる。
私は現在フルタイムのアルバイトをしている。月10数万円でも我が家の家計にとっては重要だ。
小学校に入学して子どもの帰宅時間が早まることで仕事を続けられなくなる可能性もある。いわゆる小1の壁というやつだ。
同じ地域に住む小1ママは、正社員で働いているが学童の空きがないため塾や送迎付きの習い事に通わせているらしかった。その額、月8万円だという。
うちにはその金額を捻出する余裕はない。
ただでさえ空きがない学童に、通年より1.4倍多い人数の学年の子供たちが押し寄せる。
その受け皿はどうなるのだろう。
そして最終的な出口となる就職活動は、一体どうなるのか。誰も言及しない。
ワイドショーで9月入学についての話題を取り上げていた。
教員のインタビューも出てきて反対との立場を示していたけれど、理由は「行事の調整をしなければならないから」だった。賛成の教員は「欧米への交換留学の日程調整が楽になりそう」と言っていた。
よくもまあニッチな層を揃えてきたなとは思うが、誰も子供の気持ちや低学年の子供たちの発達の違いや小1の壁と学童の話になんて言及していなかった。
ただ、やっくん(薬丸裕英)だけが「だれも子供の気持ちについて話をしていない」とド正論を言っていた。
語弊を承知で言えば、突然事故にでもあって子どもの人生ハードモードにさせられたような感覚だ。
そして、それは必要な犠牲だから甘んじて受け入れろと。なんなら8月末に生まれてくるようにしたのは自分たちなのだから、自己責任だと。(予定日通りだったら9月半ば生まれだったのにな、と思ってしまった自分をグーパンしたい。)
新型コロナウイルスの影響で、飲食店勤務の夫は今月だけでなく来月も休業が決まりそうだ。出前でも始めてなんとか頑張れよと思うかもしれないが、従業員数が多いのでそうも簡単にはいかないだろう。
私のアルバイト先の会社は教育機関が主な取引先のため経営にダメージが出ており、営業事務スタッフとして幼稚園~小学生の子供を持つ主婦が多数働いていたが、ほぼ全員が休園・休校や業務自体の縮小もあって、ここ2ヵ月全く出勤できていない。
私は技術職のアルバイトなのでまだ仕事があり、なんとか在宅勤務出来ているが、結局アルバイトの身なので社員のように立場は保障されていない。
ネガティブなことは考えないようにしているけれど、どうしてもふと、夫の会社についても不安を抱えてしまうときもある。
4月の半ばには、地元で暮らす私の祖父が亡くなった。
一代で会社を興して長年地域に貢献した人だったが、新型コロナウイルスの影響を鑑みて葬儀は親族4人のみで執り行われた。
東京に住む私は、葬儀に行けなかった。
祖父は私にしょっちゅうおもちゃを買い与えたり色々なところへ遊びに連れて行ってくれたりして可愛がってくれた。
たくさん思い出があるけれど、ここ数年は家庭の事情もあって会えていなかった。
今年のGWには祖父に会えると楽しみにしていたのに、ひ孫も見せられないままとうとう最期まで会えなかった。
同じく都内で働いている友人は、リモート勤務が許可されず、いまだに全員出社しているのだと言う。
業務内容的には在宅で出来るのに、会社はなぜか在宅勤務を渋るのだという。
体調不良で休んでいる同僚も同じ部署内にいるが、会社の提携クリニックに行かされているそうで、クリニックを買収でもして隠蔽しているのではないかと社内では持ち切りだそうだ。
それでもみんな出勤する。
心が引き裂かれそうになる。
こんな中で、いま混乱しているからと言って、9月新学期制を安易に導入してしまうのだろうか。
2~3日前はデマ乙wくらいに思っていたことが、急にはっきりと現実に翳を落としてくる。
そこにどんな具体的な問題があっても、見向きもされない。
みんなそれぞれ大変なのだからという同調圧力の犠牲として、我が子を生贄に差し出している気持ちだ。
それもうちの子でなければ感じないまま「9月入学でいいじゃんね?」と何も考えず、自分も賛成していたのかもしれない。
コロナ禍に陥る前から感じていた世の中の分断──自分が当事者でなければなんの関心も示さない世界が、究極の形で表出しているように最近感じている。
小1の親も大学生の親も皆そうであるように、私は大切な我が子が、安易に進められた制度によって強大な理不尽を抱えることなく、楽しく生きてほしい。それだけだ。